| ●赤城徳彦家系図 (人物解説リンク:ウィキペディア、コトバンク /解説: 「新訂 政治家人名事典 明治〜昭和」、他) |
浜名信平
(しんぺい) |
衆議院議員、茨城県議/
漢学を修めた後、農業を営む。
若くして自由民権運動に参加し、茨城県議、常置委員、副議長、議長を歴任した。
のち、日英博覧会評議員を経て、明治27年衆院議員に当選。以来9期務めた。
「私の履歴書/赤城宗徳」によれば、
『明治27年の第3回衆議院議員選挙に、自由党員として当選してから連続9回当選で、
大正3年12月まで、政友会に属して、議席をもっていた。』
◆「浜名信平―明治県西の巨頭」 |
石渡信太郎
(のぶたろう) |
日鉄鉱業顧問、明治鉱業常務/
明治33年東京帝国大学工科大学採鉱冶金科を卒業し、昭和3年まで九州に在住、
明治鉱業常務等を務めた。 |
| 赤城康助 |
曽祖父/地主、農業/父・赤城喜八郎は上野村初代村長を務めた/
宗徳8歳の時、早世。 |
赤城宗徳
(むねのり) |
祖父/衆議院議員(自民党)、農相、茨城県議、上野村村長/茨城/
東京帝国大学法学部法律学科/
昭和10年茨城県議を経て、12年衆院議員初当選、以来、茨城3区から当選15回。
農相(計6回)、官房長官、防衛庁長官、党総務・政調会長などを歴任した。
防衛庁長官だった35年の安保騒動では岸首相からの自衛隊出動要請を
「同胞相食む始末になっては、日本は終わり」と拒否した。
農相時代の日ソ漁業交渉が縁で、ソ連通となり、日ソ親善協会会長を務めた。
川島派、椎名派を経て、河本派長老。平成2年引退。
平将門の研究でも、著書を持つ。
◆赤城宗徳
「わが百姓の記―日本の農業と農村を想う」
「平将門」 |
| 赤城ヒサ |
上野村村長(茨城県真壁郡)/昭和22年、日本初の女性村長4人のうちの一人 |
| 赤城正武 |
大叔父/NHK専務理事、つくばね開発社長 |
| 赤城毅彦 |
父/つくばね開発(つくばねカントリークラブ経営会社)社長/
茨城県の方言研究や古代史の研究家でもあり、著書も持つ。
◆赤城毅彦
「茨城方言民俗語辞典 」
「古代日本人の謎を解く」
「邪馬台国発見史 」 |
赤城徳彦
(のりひこ) |
衆議院議員(自民党)、農水官僚/妻・まり子は深田宏の二女/茨城/
東京大学法学部卒/
2009年衆院選・落選。 |
| 林光雄 |
1903〜1997/歌人・「あけび」主宰、小西六(現・コニカミノルタ)専務/
大学時代に花田比露思の門に入り、「あけび」に入会。
昭和27年1月「あけび」復刊と同時に編集発行人となり、42年7月花田没後、主幹となる。
歌集「にぎたま」「幾山河」「白梅譜」、他に合同歌集「高樹」などがある。
また、小西六写真工業専務、東映化学工業社長などを務めた。 |
| 林邦雄 |
朝日企業会長、日本経営協会チーフコンサルタント |
| 辰馬力 |
辰馬本家酒造(白鹿)社長/妻・美代子は男爵・毛利忠三の娘/
辰馬家は初代吉左衛門が1662年、邸内に井戸を掘り、
「白鹿」の銘柄で酒造業を手がけたのが始まり。
その後、本家を中心に、南、北、東辰馬家などに分かれたが、
辰馬力は南辰馬家の辰馬利一の長男に生まれた。
母は明治の大審院長や貴族院議員を務めた児島惟謙の娘/
昭和5年、分家筋の“千代盛”などを造っていた日本摂酒の社長に迎えられ、
戦後の20年10月、日本摂酒と本家が合併して社長に就任した。
名門辰馬家の分家筋ながら、戦後36年間社長を務め、酒造り一筋であった。 |
深田宏
(ひろむ) |
セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン副理事長、鹿島平和研究所監事、
駐オーストラリア大使、外務官僚(外交官) |
塚崎裕子
(ゆうこ) |
厚生労働省官僚/深田宏長女/
◆「外国人専門職・技術職の雇用問題 」 |
| 塚崎公義 |
興銀調査部勤務を経て、久留米大教授/
◆塚崎公義
「世界経済 連鎖する危機―「金融危機」「世界同時不況」の行方を読む 」塚崎公義、他 |
| 稲山嘉寛 |
第5代経団連会長、新日本製鉄会長・社長/
長男・繁孝(三井物産)の妻は赤城宗徳の姪。
◆稲山嘉寛
「私の鉄鋼昭和史 」
「私の履歴書―昭和の経営者群像〈10〉 」 |